『紅の旅人』

 ふととある旅人と彼女を重ねてしまった。少年の頃に出会った寒いガレマルドの人が滅多に通らない路地裏の物陰で行き倒れていたあの人を。

「どうしたの?」優しく語り掛ける声にハッと我に返ると目の前にはアンナの顔。目と鼻の先にあるアンナの綺麗な顔に慌ててしまいシドは椅子から崩れ落ちてしまった。当の彼女はクスクスと笑い手を差し伸べる。今更何を驚愕しているのだろうか、ふぅと溜息を軽くつきながらシドはその手を握る。
 アンナと出会ってから程々な時が経った。霊災後、記憶を失いウルダハの教会に身を寄せていた頃に出会ってからというものの―――自分の責務を思い出してから蛮神討伐、ガレマール帝国の侵攻を跳ね除け、竜詩戦争を終結させ、遂にはドマとアラミゴを解放しようと走り続けた彼女を社員と一緒に全力で裏でフォローし続けている。『会社の利益にならないことは程々にして欲しい』という会長代理の言葉をふわりと躱しつつなんとしてもアンナに喰らい付こうとするシドをアンナ本人はどう見ているかというのはまだ分からない。それでも走り続けた結果、謎に包まれた過去を知ろうと調べ続けている最も近しい仲間である筈の暁のメンバー達よりもアンナという存在の靄に触れることが出来そうな……そんな関係を形成しつつもあった。

「いや、少し昔のことを思い出していたんだ」
「昔……第七霊災当時とか?」
「もっと過去の話だよ。ていうかお前さんといて何で急にその辺りの時代を思い出すんだ俺は」
「うーん私が一番分からない辺りの話だからかな? 興味はそれなりに」
「生まれてたよな?」
「迷ってた時に光が見えたとかそんな記憶しかない」

 シドは「お前どこで迷ってたんだ?」と苦笑しながらあの日以降頭から離れなくなった旅人の話をする。
 魔導院へ飛び級で入学する直前に出会った帝国領内で行き倒れていた赤髪の男か女かも判断が付きにくいヴィエラ族を助けたことがあった。『技術は自由のために―――』この言葉も飛空艇で飛び立った理由も無意識ながらあの人がきっかけだったかもしれない。―――現在目の前にいる同じくヴィエラである彼女にいつの間にか執着してしまった原因でもあるような気がすると考えていたがそれは口には出さなかった。アンナは何も言わずシドの話を聞いていたが、語り終わるや否や満面な笑顔で「いい話」とシドの腰に手を回しながら手を取り、手の甲に口付ける。まるで御伽噺に出る王子様のようだ。しかし相手はいい年した大人の男なのだが。

「あ、アンナ!?」
「その話、誰かにしたの?」
「してない、幼い頃の話をする機会なんてそんなに…っていうかいきなり何を!?」
「そんなヒミツ、私に教えていいの? ただの旅人にするには重たい話じゃないかなあ?」

 シドの話を無視し、鼻先が触れ合ってしまいそうな位の距離に顔を近づけてくる。逃げようにも腰に置かれた手が逃がしてくれない。目を細めクスクスと笑う姿はまるでシドを試しているようで。

「先日お前にとって大事な人の墓参りに連れて行ってもらったんだ、俺の事も話したくなってもおかしくないだろ? その、急にそっちからキスをされるとは思わなかったが……」
「いやああなたそんなに私の事を好きなのかって思って気持ちを代弁した感じ?」

 ふわりと離れながら恥じらうような素振りも見せず言ってのけるアンナには正直尊敬していた。まあ恋愛方面の話でも一切感情を揺さぶるような人でも無いろうなとは思っていたが。しかし『好きなのかと思って』?
 あの夜『あんなこと』しておいて嫌いとかそういう事は無いとは分かっているが改めて正面から言われるとシドとしては恥ずかしくなる。と言っても何も気まずく思わず会いに来るアンナは度胸というか恥じらいが無いのか? 会いに来なくなったらそれはそれで困るのでアンナの習性には感謝しかない。

「お前はどう思ってるんだ? 俺の事」
「嫌いな男の部屋に何度も来るような人に見える? あ、ごめんこれは流石に語弊がありすぎた」
「あのなあ…」

 瞬時に顔が熱くなったシドの顔を見てアンナは慌てて謝罪した。他意は無い言い方だというのは普段の色気というものが存在しない彼女を見てると分かるのだが、瞬時に謝罪されるとそれはそれで余計に恥ずかしい気分になる。その反応を見たからなのか慌てたまま言葉を続けた。

「ぼ、じゃなかった私は確かにきm…じゃなかったあなたの部屋に来ているのは気分転換……そう! 気分転換なんだ。勿論仕事で疲れているあなたの」
「そ、そうか」
「前も言ったけど! 私は旅人。同じ場所に本来残りたくないから、残したくないから無意識に距離を取ってしまうクセがあるのは理解してる。本来はここにも来ないようにしなきゃと思ってる」

 アンナは珍しく慌てふためいている。命の恩人の墓参り中でも見せなかった姿が少し新鮮に思えた。そしてシドは徐々に普段とは違う口調を正す姿に無理しなくてもいいのにとぼんやりと見つめながら見つめている。

「アレを見たらキミから離れるなんて無理だしあんな話されたら消えるわけにはいけないじゃない、ですか」
「それはどう」
「ヒミツ! 旅人はミステリアス!」
「確かにお前さんは謎が多い人だが」
「とにかく! キミがボクの事が好きだから先にこうキスしてやったの! いやあいい反応見れて楽し……あ」
「ボク……か」

 あー! と奇声を上げている。今のが『本来のアンナ・サリス』だったのだろう。趣があっていいものだと思うが本人にとっては化けの皮が剝がれたようなもので。アンナは頭を抱え部屋の寝台に頭をぶつけている。

「前から薄々感じてたがもしかしてあんまり喋らないのは」
「忘れて」
「えらく分厚い猫かぶりだな」
「気のせい」
「俺は好きだな。別に普段からそういう口調でもいいんじゃないか?」

 アンナは「忘れろって言ってるっ!!!」と言いながら顔を真っ赤にし手元の刀を振りぬきブンブンと振り回し始める。シドがこれを窘めるのにまた数刻かかったのは言うまでもない。

 そんなアンナは只今盛大な溜息を吐き正座をしていた。

「ごめんなさい。冷静じゃなかった」
「いやまあ弄った俺も悪かった」

 それと、とシドはアンナの肩をつかみながら頭を下げる。

「えっとな、一度仕切り直させてほしい」
「?」
「ああいうのは男である俺にやらせてほしい。ちゃんとした場所で、ほらもっとムードというのを考えてだな」
「今更私は気にしない」
「俺が気になるんだ。既に、その、あんなことし合った間柄で言っても変な話なんだが」

 その言葉にアンナはクスクスと笑っている。一度暴れ回り冷静になったのか先程のような言動は消えてしまっていた。勿体ない、次はいつ見れるのか。そう考えながら拙い手つきで頭を撫でた。ふわりとシトラスな香りがシドのまだ隠していたい、アンナを否定できない感情を刺激する。ふと『あの人』も香水の香りがしたなと思い出す。何故再び重ねてしまったのか、調子が狂っているのは自分の方だったかもしれないと笑みが漏れる。

「あなたに撫でられるのも悪くはない」
「それはどうも。そういえば香水はどこで買っているんだ? ほぼいつも違うが」
「気分で。昔からほとんど自分で調合する」
「そりゃ凄いじゃないか」
「子供の頃に故郷で教えて貰った数少ないもの」

 いつも通りの会話だ。他愛のない会話をしてアンナの笑顔で昨日までの疲れが吹っ飛んでいって。残されている莫大な書類も片付けできそうだ。
 自分はあの『残したくない』彼女が尊敬し、唯一彼女が『残していた』立派な侍であるリンドウ・フウガにはなれない。しかしせめて彼女の隣に立っていたい。それはあの絵画には存在しない今を生きる者の特権である。以前より隣に座ることも増えても絶対に拒否される事は理解している言えない想いを心の奥に仕舞い込みながらシドは『余所行き』の笑顔を見せるアンナを見送るのだ。いつもだったら。
―――再び扉を開きアンナはこう言いやがったのだ。

「シド、勘違いしてるみたいだけどあの夜何もしてないからね? あなたの乱れてた浴衣直して放り出してた服畳んで、ただどういう反応するかなーって好奇心で肩にキスマーク付けただけだから。あの後普通に布団かけて私も寝たよ」
「…………は?」
「『見なかったことにしよう』って聞こえて来た時は正直爆笑した。今の顔も最高。ナイスイタズラ。じゃあね」
「待て! 今の話詳しく聞かせろ! おいアンナ! 俺の悩んでた数日を返せ!!」

 しかしこの時の俺は知らなかった。決して俺の手が届かない場所で彼女が最も隠していた過去と、俺の生まれ故郷との奇妙な縁が牙を剥いて襲い掛かってしまうことに―――